内科秘録 醫學 解説(4)
傷寒論に載するところの方は前文にも述べる通り上古の遺方なれば一味も漫に去加するときは古方の本旨を失うべし。後人越婢加朮湯へ茯苓を加え大柴胡湯へ芒硝を加ふるの類。倉卒に視るときは当然のようになれども古方の意を失せり。朮の一味にて足りたるところへ茯苓を加ふるときは朮の分量を減ずるゆえ朮にて功を取るに十分ならず。また利水の剤に麻黄と朮を組したる方は多く有れども麻黄と茯苓を併用したる方は無きように覚ゆ。茯苓は桂枝と合用するを定法となす。桂枝加苓朮湯・五苓散・八味地黄丸の類これなり。大柴胡湯は大黄の一味にて足れりとす。若し大黄芒硝を合用して功を取りたき場合ならば大承気湯を用いて可なり。今、越婢加朮湯へ茯苓を加え大柴胡湯へ芒硝を加えるは、たとえば鯛の切身を平種に献立のできたるところへ鴨を加ふるに同じうして杜撰の責を免れず。また兼用の剤を与ふる、たとえば黴瘡の病人へ搜風解毒湯を与え化毒丸を兼用とし鼠咬の病人へ五物解毒湯加千屈菜を投じ紫金錠を兼用とするは当然の事とす。今の醫風を観るに淨府湯に柴胡抑肝散を兼用とし柴胡桂姜湯に補中益気湯を兼用とする者あり。首鼠両端にして功を得る難かるべし。愚按するに仲景氏の法に合方は桂麻各半湯・柴胡桂枝湯の類にて有るなれども兼用の剤を用いるなし。
傷寒論に載っている薬方はそれより昔の人々が残した経験方だから、一味でも安易に加減をするものではない。後の人が越婢加朮湯に茯苓を加えたり、大柴胡湯に芒硝を加えたりしているけどあれのことさ。
朮の一味で足りているところに茯苓を加えて朮の分量を減らすのであれば、朮の効果を十分に得られない。
また麻黄に朮を組み合わせた利水剤は多いけど、麻黄と茯苓を併用したものはないように思う。
茯苓は桂枝と合わせるのが定法だ。桂枝加苓朮湯、五苓散、八味地黄丸などがそうで。
大柴胡湯は大黄の一味だけで下す薬味は足りている。もし大黄に芒硝をあわせて効果を得たいのだったら、大承気湯を用いればいいよ。
また兼用方にも道理があって、これは当然だなっていう兼用の方法もある。でも、今の医者をみると淨府湯に柴胡抑肝散を兼用したり、柴胡桂枝乾姜湯に補中益気湯を兼用したりするやつがいる。これでは効果を得られないだろうね。仲景の傷寒論には、桂麻各半湯、柴胡桂枝湯といった合方のたぐいがあるけども、兼用方は用いていないんじゃないの。
個人的には異論のあるところですが…越婢加苓朮湯だって実際にありますよね。
療治を学ぶの法はまず病人を多く診視するを第一の要務となすべし。無学の者でも療治に心を専らにするときは自然と療治手に入り世に名工と称せられて大家をなす者あり。いわんや学文の出来ての上に療治に志すときは扁倉和緩の跡も逐うべし。仮に酉の書を読み五車の文を講じ紙上にては疾病の陰陽虚実をつまびらかにし治法の補瀉温涼を明らかにするとも療治に不志者は病人に対し茫然としてなすところを知らず卒病急証に倉皇して措を失するのみ。殊に痘瘡などはまれに行わるる病ゆえ素人が見ても眼前痘瘡に相違なきものを初学の醫は決定するあたわず。傍らより気を付けられて大いに汚名を受るあり。されば初学の者は有名の国工にて疾病を多く取り扱う者を師となし其の門に就いて疾病を見覚える緊要なり。奇病異証は他門へも請うて聞見し遠方へも足を運んで病人を診し万病を遺さぬように心がけるべし。
治療を学ぶにあたってはまず病人を数多くみることを第一とすべきだね。学がないやつでも治療に専念すれば自然とうまくなって大先生になることがあるんだよ。まして、学問もできるやつが治療をしようというのであれば、こりゃすごいじゃないか。
でもね、軽トラック5台分もの本を読んで勉強して、机の上では病気の陰陽虚実も明確に述べられるし、治療の補瀉も温めるのか冷やすのかも言えるようになったとしてもだね、実際に治療の経験をつまなければ、病人を目の前にした場合は呆然として何をしていいのか解らないのよ。
急性病をみちゃったりしたら、あわててどうすることもできない。痘瘡なんかは素人がみても痘瘡だとわかるのにさ、初学の医者はそれを痘瘡だと診断することができなかったりして恥をかくもんだ。
だから初学のうちは有名な医者で患者の多いところで勉強させてもらって、たくさんの病気をみて覚えるのが大事だ。めずらしい病気の患者が来たら他の医者にも教えてもらえばいいし、遠くヘも足を運んで様々な病人をみることで、あらゆる疾患をみて経験するように心がけるべきだよ。
疾病を診視するにはまず利欲の念を断ち胸襟を清爽にし貧富を選ばず貴賎を分かたず惟膏肓にのみ意を注ぎ精神を入れて視るべし。まず脉を切し腹を按じその人の天凛を審らかにし病の原由を問い病の証候を尋ね色彩を望み形容を観て声音を聞き気臭を嗅ぎ平生習慣するところを審らかにしその上にて寒熱虚実浅深緩急常変等の諸候を知り内因外因内外兼因内外別因を明らかにし病名を定め方を処するときは回春の効なしはあるべからず。修行を遂け活人の手段を得るときは業の行わるるは必定なれども相手が素人ゆえに壮年の医者をば総て初心のように侮りて容易に療治を託せず、たとえ託するも速効なきときは乍ち(たちまち)休薬して醫を更ふる世の習なり。初心の者は謾に慍り自ずから畫り(はかり)て自然と懈怠して業を廃するに至るものあり。口惜しきなり。大業を志す者はこれらの小事にて素志を改むべからず。たとえ少しの病人にても数千人の疾病を關かりたるように心得、日に省診し孜孜(しし)として怠らざるを専要とす。この心を弛まずに長く通すときは後には必ず数千人の疾病を取扱い活人済世の功を立つるに足れり。江戸広小路などにて辻講釈をする者を視るに初めは聞くもの一人もなけれども向こうに数千人並びたるように視通して活眼になり汗を流し張扇にて机を打ち雄弁を振るうに往来の者漸漸に輻湊して遂に堵の如く講壇を圍む(囲む)に至るが如し。
病人をみるときはね、まず私利私欲の雑念をすてて、襟元を正してだね、患者の貧富の差やら社会的な地位とか、そんなものに気を取られないで、ただその患者の病気がどこにあるのかに精神を集中してみるべきだよ。
まず脉をみて、腹診をして、その病気の原因を検討して、望診聞診問診に始まって、患者の生活習慣も忘れずにたずねて、その上で寒熱虚実やら病気の深浅やら慢性か急性かなんかを見極めていくようにして診断するように心がけたら、治療効果がさっぱりないなんてことはないだろう。
初心者のうちはいろいろと思うようにならないこともあるし、我慢ならなくてやめてしまう者もいるけど、それは残念なことだね。大きな志をもつやつはさ、小さな事でくじけてはいけないよ。
たとえ始めたばかりで患者が少ないうちでも、まるで数千人の患者をみているように考えて日々の治療記録を見返しながらせっせと研究努力することを怠らなければ、後には本当に数千人の患者をみるようになっているものだし、世のためになる仕事をしているものさ。
ストリートで辻講釈をしている人をみかけることがあるけど、最初は誰も聞いちゃいないんだけどさ、そいつがまるでその向こうに数千人が並んで聞いているような感じで汗を流しながらハリセンでバンバン机を叩いて雄弁をふるっているとさ、往来の人が足をとめて聴き始めちゃって、気がつけば大勢の人にかこまれているようなものだよね。
以上、大変大雑把な現代語意訳でした。
最後の2段は特にグッと来ますね。頑張りましょう!
資料のご協力をいただきました中村薬局、中村峰夫先生にあらためて御礼申し上げます。